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2016年 05月 15日
2F 加藤真史展「この腕の痛みは自分のものではない」-展示紹介
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食べ物が身体をかたちづくっているように、
普段私たちが見るものは私たちの心に影響を及ぼします。

例えば毎日繰り返し見る風景の記憶が頭の中で加工され、
相対化された(強度を獲得し切り離された)とき、
その影響は症状として自らに回帰するのではないでしょうか。
まるで「惑星ソラリス」が繰り返し宇宙ステーション上の観察者に送り込んでくる、
実体化された彼らのトラウマのように。
強度を持った記憶は本体を脅かします。

「いつも通る道だからって、
景色は同じじゃない。
それだけではいけないのか。
それだけのことだから、いけないのか。」
これは押井守監督の映画『スカイ・クロラ』の終盤に主人公が呟いたモノローグですが、
私にとってこれは呪いの言葉にも聞こえます。
見飽きたような風景でも微細な変化は起こっているのだから、
それらを感じとれないのは他ならぬ君自身の問題ではないのかと。
風景はいつでも多彩であると。

相対化された風景の回帰は自分の日常的な生活圏だけで起こるわけではありません。
社会学者の三浦展が著作『ファスト風土化する日本-郊外化とその病理』で述べたように、現代の日本はどこへ行っても似たような風景が拡がりつつあります。
つまりそれは風景が時間と距離すら包摂しつつあると言い換えることができます。
五時間も電車に乗って遠出してみたけれどなんだか風景は変わり映えしないな
といったように。

主観的には半永久的ともいえるほど反復して目にし、
時間や距離すらも飛び越えるほどに拡がる現代の日本の均質化された風景は、
トラウマや呪いすら通り越した「概念」のようなものといえるのではないでしょうか。

(text/加藤真史)

加藤真史展「この腕の痛みは自分のものではない」

by mmfa | 2016-05-15 12:35 | 展示情報


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